窓際に日誌

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11月27日

保坂和志さんと若竹千佐子さんの対談を読んだ。

とてもよかった。僕も考えを言葉にできるようになりたい。

こうして日記を書いている時も、思ったこと、感じたことを言葉にするのは、ほとんど見知らぬ言葉の翻訳作業のようで、どうもうまくいかずに歯がゆい。

イメージで思考するということも、言葉で思考するということも、両方ができたらいいだろうと思う。

 

若竹さんの小説はまだ読めていない。

 

保坂 桃子さんは考えることにこだわって、問いとか意味とか一見頭でっかちなことを言うけど、作者が偉かったのは、最後の、行列する女たちのシーンがあることだよ。終盤の墓参りで霊園へ続く山道の上り坂を歩きながら、だんだん足が限界になってくる。痛いけどがんばって、心の中の声に耳を傾けているところで、「大勢の桃子さんがいる」と書きますね。この時点ではまだ桃子さんの内面を描いていて、外側からみたら、桃子さんはまだひとり。それがその後、周造が死んだ頃の記憶を描写して、白昼夢で女たちの長い行列を見たと書く。ここで、外見上でも複数になるんだよね。つまり、イメージの地平に開けるんだよ。問いや意味といった理屈から入って、その理屈を杖にしながら進んでいって、イメージへたどり着く。表面上では理屈を使いながら、イメージへと開くことに軽快さや明るさがあるわけ。

 

なんと言ったらいいか...とても読んでみたい

 

保坂 それと、この小説は普通ではない流れ方をしていて、たとえば娘の直美の話があります。直美は結婚して家を出ていて、「いつごろからか疎遠になった」。普通というか、ありがちな小説だとこの後には疎遠になった理由が延々と続いて鬱陶しくなるけど、桃子さんはそれをしない。つまり、内面の暗いところへと小説を深めないんだよね。さらにまた別のシーンで、病院の待合室ではす向かいに座った女が、ハンドバッグから物を出したりしまったりしているのを見て、「ふと、こんな光景にどこかで出くわしたことがあると思った」と言って、娘時代に夜行列車で出会った男の話になる。ここも普通は自分の内面に入っていくんだけど、この病院と夜行列車のふたつの出来事を結ぶのは、「眺めている自分のあり方」であって、昔から自分は「見るだけ、眺めるだけの人生なのだもの」と、自分という人間を描くのに内面の奥へ奥へと深めないから、小説全体が伸びやかで軽やかになる。普通の、ありがちな小説を書く人は、こういうところで自分の内面へ降りていかないといけないと思っているんだよね。

 

軽やかさは作品には不可欠のように思える。

 

若竹 人間の心って、プレートが何重にも重なるように出来ていて、本当に深いところの気持ちというものを本人は見ないようにしているけれども、その気持ちがあるということ、知ってるよと、そう言ってくれる存在が桃子さんの中にはいっぱいいるんです。

 

 

僕も漫画が描きたい。

 

昨日の夕飯は甘辛い鶏肉の丼と豆乳鍋ののこり、サバと大根の煮物だった。